知識を持っているだけでは何も偉くない。

なんか、特定個人向けの緩い記事が無駄に多くのはてブを集めて動揺したので、お茶を濁すために、どうでも良い個人的なことを書いておきます。
人生25年生きて、自分の中で大きく変わったことがあります。それは、「物識りはさほど偉くない」という事です。
これは、昔も同じような事を考えたことがあるのですが、その時の理由としては「インターネット登場後の時代では、誰でも調べようと思ったら調べられるので、知ってることよりも、調べる能力の方が大事」という理論でした。なので、別に知識に対して直接的に価値観が変化したわけではありませんでした。
しかし、25歳くらいから、それとはまたちょっと違った視点で、知識に対する価値観が変化してきました。

一定レベル以上になると、知っていることが当たり前過ぎて何も偉くない。

幼少の頃、物識りおじさんに憧れを抱き、僕もそういった物識り博士になりたいと思った僕は、とりあえず様々な分野を体験し、記憶していきました。
これの良かった点は、色々な人と話ても、何かしらの共通の話題があり会話に困らないという点でした。これに関しては、今でも変わりありません。ただ、それとは別の考えも感じるようになってきました。それが、

知ってるだけで偉そうにしている人がむかつく。

という感情です。ある特定の分野で一定以上になると、回りにいる人たちは本当に良く知っています。するとどうでしょう。今まで物識りだと思っていた自分が、一気にただの人に逆戻りです。一定レベル以上の人とまともに話をするために知識は必要ですが、それを通り過ぎると、知っていることのアドバンテージは儚くも崩れ去るのです。
そんな中で、あれ知ってます、これ知ってますという人の何と惨めなこと。いや、それが話題として面白かったらいいのですが、ただそれだけがアイデンティティのように振る舞っている人を見ると、とても可哀そうに見えてしまいます。
僕はネットで自分より凄い人ばかり見ていたので、そういった人達についていくのがやっとだったけど、そういった人と関わりもなく、閉鎖的な場所にいたのであれば、僕もそうなっていたのかもしれません。
しかし、こんな単純なことに気がつくのに、25年もかかってしまった自分もほんと情けないです。まだまだ精進が足りません。

では、知識は何に使えばいいのか。

ただ、ある分野で十分な知識を有しているということは、自信を持っていても良いと思います。ただ問題は、これまで蓄えてきた知識、これから蓄えていく知識を何に使えばいいのかという点です。
ひとつ、僕が考えていることは、自分の知識をまだ知らない人に分かりやすく伝えていくという事です。
自分が様々な事を知っている過程には多くの刺激がありました。これから成長していく若者にとって、自分自身がセレンディピティの塊のようになりたいと最近はそう思っています。
自分が小さなころ、知らない事を教えられ目を輝かせた時のように、自分も誰かの目を輝かさせることができればこの上なく幸せです。