社会の縮図から学んだこと。

社会の縮図とは何かと言うと、学校のことなんですが、同年代の全てが集う学校という環境はやっぱり極めて特殊で、あの18歳までの空間は非常に学ぶことが多かったと今でも思っています。
楽しいか、楽しくないかは別にして、あの18年間は紛れもなく社会の縮図だったと、学校教育を卒業して約10年が経つ今にしても人間関係や社会を生きる上で、常々参考にしています。

学校生活でのポジションは、その後の人生でも大きく変わることはない。

僕の持論のひとつに「学校生活でのポジションは、その後の人生でも大きく変わることはない」という考えがあります。
学校でいつもリーダーだったやつ、人の意見に流されるやつ、うざいやつ、気がきくやつなどなど、学校では様々なポジションのやつがいました。
これらのポジションは、その後の人生にあって、大きく変わることはありません。リーダーだったやつは、どんな環境でもリーダーになるし、指示に従っていた人がリーダーになることはありません。気がきく人はいつも気がきくし、うざいやつは、どこでも疎まられます。
これは、18年の歳月で形成された個人というものは、そう簡単に変わるものではない、という事なのでしょう。
しかし、これは深く考える必要すらない当然な話で、スポーツでずっと同じポジションを継続していると、そのポジションのスキルが上達していくのと同じように、人間関係のポジショニングスキルも18年間で上達していっているからと考えれば自然な話です。

変わりたければ、変わればいい。ただし、並々ならない努力が必要。

もし、18年間の自分のポジションと決別し、違うポジションにコンバートしたいと考えたとします。しかし、これは並々ならない努力が必要でしょう。
徐々にではなく、いきなり自分のポジションを変えようとしても、そのポジションに必要なスキルが分からないため、新しい環境でいきなり違うポジションを得たとしても、必ず無理が生じます。しかし、それでも変化を望むのであれば、必死に努力するしかないのではないかと思います。
僕は27年目にして新しい自分にチャレンジしていますが(ここでは何かとは言いません)、なかなか前途多難です。

目に見えることだけで評価する指導者は、指導者としてのスキルがない。

学校教育の中で指導者と言えば、先生ですが、先生からも色々と学びました。そのひとつに指導者としての素質があります。
僕の人生の中で、恩師と呼べる指導者と、カスみたい指導者の違いは、評価基準にあったと思っています。
カスみたいな指導者は、生徒をテストの点数、つまり成果物でしか評価しません。これはつまり、目に見える範囲でしか評価しないという事になります。テストの点数は確かに大事です。しかし、それだけで評価することなんてサルでも出来るお話です。彼らは勉強を教える講師であって、指導者ではなかったという事になります。
逆に僕にとって指導者と呼べる人がどのような人であったかというと、気付きを与えてくれた人になります。
彼らは、僕が何気なく考えていたこと、興味関心などが、実は他の人にはない大事な個性であるということを教えてくれました。変わらない日常、多くの個性、そういった中から、本人すらも気付かないもの、良いこと悪いことひっくるめて評価できることが、指導者として大事なスキルだと感じました。
いじめに気付かなかったとか、そういう先生はテストの採点だけしていたのでしょう。そうはならないよう、僕も注意していきたいです。

社会の縮図から学べることはいくらでもある。

僕が社会の縮図から学んだことはいくらでもあります。よくそんな話を母とか、友達とかにしているのですが、その中の代表的な話を今日は書いてみました。