2011年、構造改革の年。

あけましておめでとうございます。
気付けば僕も27歳になっていました。と書きましたが、本当ですか?
自分の年齢もそうですが、人の年齢についても脳内認識を改めないといけない時期となってきたようです。例えば、年上の知り合いなどが最初出会ったときは30代だったけど、既に40代に突入していたという事例が往々にして頻出するようになりました。
さて、そんなご時分ですが、周りの人間も色々と変化してきています。
結婚する者、離婚する者、起業する者、転職する者、職を失しなう者、事故にあう者、決意を固める者などなど。
良くなる人もいれば、悪くなる人も当然います。みんなが幸せであればいいという幻想は、とうの十代に滅せられましたが、それでも不幸になる者を見るのは悲しいです。

不幸の定義。

貧乏でも幸せという言葉があります。
これは自分にも当てはまるものでした。貧乏の度合いというものがありますが、僕の場合は高校生の頃にバイトをしなければ一家離散していたレベルです。逆に言えば、僕がバイトするだけで一家離散の危機は回避できたので、子供の心情としては絶望的ではありませんでした。
しかし、もし僕がバイトするのが嫌だったとしましょう。すると、家賃も払えず家を失ない、最悪一家離散という割と悲惨な未来が実現していたかもしれません。
その2つの未来の差を生んだのはやっぱりお金だったのですが、しかし、根本にあるものは僕が(小遣いがなかったので)バイトをしたいという意欲があったというのが回避要因だったのではないかと思います。とても小さなものですね。

死に向かう人を止める。

新年早々、テーマがどんどん重くなってきましたが、せっかくなので続けます。
生きたいと思う人は勝手には死にません。でも生きなくても良いと思う人は勝手気儘に死ぬかもしれません。生きる気力を失なうという言葉がありますが、意外と身近にそういう人は存在します。
そういう人が死に飛び込まないようにするにはどうすればいいのでしょうか。最近はそういう悩みが僕の中で尽きません。
自分が死んで欲しくないという理由は非常に独善的で、突き詰めれば、勝手に死なれたときに後悔したくないというだけです。死ぬのを止められなかったね、といって一生を過ごしたくないだけです。
ただ、死ぬことによって楽になる世界というもの存在します。介護疲れという言葉もありますが、そういう限界に直面している人にとって死はシンプルな開放に繋がります。

シンプル思考の限界、ポストシンプル。

シンプルな考え方は今ままで僕の根本を支え、精神状態の安定に務め、成長を促進してくれていたと信じています。ですが、ここにきてシンプルに考えられなくなってきたかもしれません。
僕のシンプル思考法は選択と割り切りです。ですが、その回路では解決できなくなってきてしまったのです。その一番の原因は、自分だけの力(選択)ではどうにもならない事態が増えてきたという事に他ならないでしょう。
つまり、ここにきて自己の指針を転換しなければならない局面がやってきたというわけです。
2011年は限界にきたシンプル思考をどう転換すべきか、それによって自分の周囲がどう変化していくか。そういう変化の一年になりそうです。