そろそろ、俺の阪神大震災のでの被災経験の話をしようか。

GIGAZINE の記事にリンクするのは恥じめてだが、多くの人に見てもらいたいので、リンクしておく。ちなみに、俺はまだこの記事を読んでいない。
震災からもう10年以上が経ち、自分の記憶が風化してしまうのが怖いのと、そろそろ事実を乗り越えていけるだろうという事で書くのだが、正直、ちょっとタイプする手が震えている。
かなり率直な表現で書くので、本当に被災した方などをは読まない方が良いかもしれないとだけ、最初に断わっておきます。

小学5年生、兵庫県明石市で被災のその時。

震度は5〜6だったはず。
最初の揺れがきたとき、ぐーすか爆睡していた俺は、地震がきても気付かず寝続けていたのだが、揺れが続いている中、親父に叩き起こされ、不機嫌ながら目が覚めた。
が、二度寝。がしかし、母の(恐怖の)叫び声で意識のスイッチが入った。とんでもなく揺れていて、ぼーぜんとする。
一旦、揺れが収まってから、余震がくる。それからは良く覚えているが、まず、音が凄い
なぜ、音が凄いかというと、家が全力で揺れているからで、まぁ、その瞬間はそんなん理解できるわけなく、とりあえず暗闇の中、鳴り響く轟音に恐怖しまくった。
妹は泣き叫び、母はタンスを押さえながら叫び、父もタンスを支えながら、励ましていたような気がする。家が倒壊するとか、そんなん考える余裕なんてなく、

  • 余震
  • 超ビビる
  • 揺れが収まる
  • 息を殺して落ち着く
  • 再び余震
  • またビビる
  • 揺れが収まる
  • 心を落ちつかせる

を30分以上は繰り返したのではなっかっただろうか。ほぼ完全に余震が収まるまでは、半日以上かかったが、余震が続く間は、最初らへんの揺れよりも、凄い揺れがきたらどうしよう!という気持ちでいっぱいだった。

人生で最も長かった1時間。

幸い、我が家のおんぼろアパートも倒壊する事もなく、凄い揺れは乗り切ったのだが、さて、1月の日の出は7時くらい。電気が付かないので、ある程度揺れが収まっても、日の出まで動けない。懐中電灯なども、寝室にはない。
3部屋のアパートで、寝室は一番奥だったので、寝室の隣のリビングを通らないと家の外には出る事ができないのだが、リビングはあらゆる物がごった返して(例えば、テレビとか2メートルくらい吹っ飛んでいた)、足の踏み場がない。
まるで、糸柳さんの部屋のようだが、ガラスも一杯割れているので、それよりたちが悪いかもしれない。
何が割れているかもわからないので、暗闇の中歩くわけにもいかず、明るくなるまで、家族で勇気づけながら1時間を過したと思うが、沈黙の一時間は本当に地獄で、親族や友達などの心配ばかり頭に浮んだ。

人生で最も待ち望んだ日の出。

明るくなって、ようやくリビングを見る。2段重ねのタンスとか、上の段が1回転して落ちており、棚という棚が倒れていた。
開き戸の食器棚は、食器全てが落ちて割れており、2度と観音開きは買うまいと幼なながらに誓う。
まぁ、足元を慎重に確認しながら、タンスの上とか、机の上とかを歩いて、玄関へ行き念願の外へ。
この瞬間の、外へ出られた安堵感と、明るさへの喜びの感覚は2度と味わうことはないと思うし、味わいたくないと思うけど、外ってホント凄い。つまり、地震のときの室内の怖さは絶望的だった。
でも、小学5年生だった僕は、近所の家で倒壊している建物もなく*1、つまり誰も死ぬ人なんていなかったよねという思考になり、恐怖心を払拭してしまい、あらゆる安心感で気持ちが一杯になってしまった。
そして、近所の同級生が外に出てきたのを見つけると、
「今日って、もちろん学校休みやんなー!!」と大きな声で叫び、
「そうやろー!!」という友達の返事で、意気揚々として家に戻った。が、しかし、町内放送で、点呼のため、小学校へきて下さいというアナウンスでちょっとがっかりし、でも授業なく解散で、ハッピーになったけど、1週間くらいは休みやろうと思っていた学校が3日しか休みがなくて、非常にがっかりしたのを強く覚えています。
いま考えると、ホント申し分けない気持ちでいっぱいなので、ここに懺悔しておきます。
その後は、家の片付けが忙しかったり、何なりしたけど、水もすぐ出たし、ガスもプロパンだったので、問題なく使え、電気も早くに復旧し、テレビを眺めながら、灘とか垂水とか長田とか見て、スゲーと他人事の様に見ていましたが、実際、火災のあった長田、建物が倒壊しまくった灘区の人の話を聞くと、まったく経験が違いますので、他人事としか思えないのは正しい認識だったのでしょう。
結論としては、学校が休みになると、小学生は手放しで嬉しがるという事でした。
追記
とか言ってて、まとめのYouTube の映像見てたら、色々思いだして、身が震えて涙が止まらなくなった。やっぱり他人事じゃないね。
死亡者リストが表示されたら、テレビに食らいつくようにして目を通していたのを思い出した。ネットとかないから、テロップを目視せんといかんくて、しかも7000人以上いたわけなんで、凄い量だったのを覚えている。

*1:神戸市灘区などとは揺れの種類が違い、揺れの大きさはあまり変りありませんでしたが、明石は建物の倒壊が少ないタイプだったのです。