交友はなぜ続くのか。

一般的に、社会人に入ってからも連絡を取り合うような、学生時代からの友人というのは何人くらいいるものなのだろうか。
社会人になってからの友人というのは、仕事であったり、生活であったり、はたまたネットであったりと、普段から接点がある人であるが、学生時代の友人というのは、既に普段の接点はない。
それにも関わらず、交友が続くというのは、何かしらの理由があるからだと言える。
その何かしらの理由について、数年前からぼんやりと考えていたので、そろそろ一度纏めておく。

交友関係を広げた学生時代。

友達100人の歌しかり、友達は多ければ多いほど良いと信じていた少年だったので、愛嬌よく人と接することを心掛け、小・中・高の全てにおいて、別に人前で目立つ行動とかはしなかったけど、まぁ7〜8割方の同級生に顔を覚えてもらっていたかと思う。何でかは知らない。
要するに、恥かしがりやで人見知りではあるが、地道な努力によって人知れず交友関係を広げていたのだ。こんな言い方は身も蓋もないが、交友関係なんてカリスマを除いて努力なしでは広がらないもんだと思う。
そんなわけで、いくつもの友達グループを丁寧にバランスよく顔を出し、付かず離れずの関係を維持し、学生を卒業した後も、普段顔を合わさない人に1年に一回くらい定期的に連絡を入れたりして近況を報告しあったりしていた。
ただ、そんな努力も25歳を過ぎたころから、徐々に面倒(忙しくなったとか言い訳できるけど、正直なところ面倒というのが正解だろう)になってきてしまい、現在に至っては、1年に一回も顔を合わさない友達がだいぶ増えてしまった。まぁ、これが一般的なのかもしれないが。

誰とも交友が続かなかったA君。

ここで別の話をする。A君についてだ。
A君は中学まで地元だったが、高校から別の市の学校へ進学したため、地元の友達が少ないことを嘆いていた。
そこで、高校卒業後、彼は地元の友達を増やそうと、中学時代の同級生と連絡を取り、交友を復活させようと努力した。しかし、残念ながら交友は長くは続かなかった。
これはまったくもって僕の勝手な主観なのだが、最初はみんな何度か遊んだものの、おそらくA君と遊ぶのがあまり楽しくなく、結局こちらから連絡を取ることがなく、A君も一方的に連絡を取るのに疲れたのか、苦痛になったのか、結果としてA君からの連絡がなくなった時点で交友は消滅してしまったのだ。

交友を続ける理由は何なのか。

僕は、A君の事例から、交友を続ける人と、続けようと思わなかった人との差について、考えるようになった。
答えは、非常に打算的で、とても聞こえの良いものではないのだが、はっきり言ってしまうと、自分に対してその人とつきあうメリットがあるか、ないかではないかと思った。
メリットと言うと、ほんとうに聞こえが悪いので、もう少しオブラートに包んだ言い方をすると、自分にとって得るものがあるかないかだ(全然変わってませんね)。
どんどん表現が酷くなるけど、多くの人との交友を頑張って維持してきた僕の率直な感想としても、人とそれなりの関係を続けるのは、とても時間も体力もかかる。時間があり余っている学生時代ではなく、働き盛りで忙しい20代後半に入っても、関係を維持するには、関係を続けるだけの対価がなければ、なかなか難しいのかもしれない。
しかし、ビジネスのつきあいではなく、恋愛づきあいでもなく、友人づきあいである。対価と言ってもお金でなく、愛でもない。
友情の対価とは、ストレスからの開放、知恵、純粋な楽しさなど、だいたいがメンタルだろう。友情とは何かを分ちあう関係だと思う。ただ、分けるものがないとすれば、友情は続かないのだ。

自分は友達に何を与えられるのか。

友情はギブアンドテイク。一方的では続かない。それが今の僕の結論なのだが、そうなると自分は友達に対して何を与えられるのか、何か与えられているのだろうかと少し考え込んでしまう。
僕の持論からすると、僕自身が与えることができなければ、どんなに僕が仲良くしたがっていても、関係を続けてもらうことはできないのだ。
しかし、ここまでシビアで計算高いことを言ってきたのに、まったく正反対のことを言ってしまうのだが、そんなこと(自分が何を与えられるか)気にしても仕方がないというのも僕の持論なのだ。
計算でのつきあいなんて、面白くないし、美しくないし、まったくもってナンセンスである。
掛け値なしの友情というのは、単純で純粋に気が合うか合わないかであり、計算なんてまったくもって役に立たないものなのだ。
時にして深く考えることも大事だが、あまり深く考え過ぎるのも良くないのである。結局最後は、僕の中心理念であるバランス論でした。