僕が読みやすい文章を意識するようになったのはなぜか?

僕が人に見せても恥かしくない文章を書きたいと思うようになったのは、いくつか理由があるのですが、それらをぼーっと考えていて段々纏まってきたので、ここらへんで一度纏めておきます。
僕がそもそも文章(ライティング)に興味を持つようになったのは、ゲーム雑誌の電撃(現:アスキーメディアワークス出版)が、僕の中学時代に刊行していた『電撃Nintendo64』という雑誌に記事を書いていた中川大明さんというライターの方の文章を読むようになってからです。
僕にとって、彼の文章はとても面白くて、色々な雑誌で彼の文章を見つけては熱心に読みました。その中で、何度か彼の好きな作家で挙げられていたのが北方謙三氏でした。僕はそれを切っ掛けとして、北方謙三三国志を読みはじめました。

とても読みやすい北方謙三の小説。

北方謙三の小説は、大きくわけてハードボイルド時代と歴史小説時代に分かれるのかと思いますが、僕が主に読んだのは歴史小説からです。主に三国志水滸伝→楊家将→楊令伝→血涙→史記という感じです。
北方謙三の文章は、とても読みやすいです。さっぱりしていて、すらすら読めます(伊藤はスナック菓子や!と言っていました)。しかも、時代と共にどんどん成長をしており、最新作の史記ですら成長を感じさせます。
僕は、北方謙三の文章から「読みやすさは正義」という認識を得ました。どんなに素晴しい小説でも、読むのがしんどいと読者の数を減らします。しかし、読みやすくて尚、面白い小説であれば、それ以上に素晴しいことはありません。
恐らく、この時から読みやすい文章を書く意識が芽生えて、僕も綺麗な文章を書きたいと思い始めました。

はじめてのPerlから学んだ技術書としての面白さ。

技術書として、僕が初めて読んだのは、オライリー出版の「はじめてのPerl」でした。その後、他の技術書も読みましたが、多くの技術書の中から、はじめてのPerlに出会えたことは、とても運が良かったと思っています。
はじめてのPerlからは ある意味 "たいくつな" 技術書を、いかに面白くするかという試行錯誤を強く感じました。このはじめてのPerlを読んだお陰で、丁寧で読みやすい文章を書くだけではなく、たいくつな解説をいかに面白く書くのが大事であるかということを学びました。
ただ、面白い文章を書くにはセンスが必要で、僕にはまだまだこのセンスが足りてないと思って、日々精進しています。

ブログと書籍の違い。

まぁ、個と公の違いなのかもしれませんが、ブログであれば適当に書いたり、分かりませんって書けるところも、書籍になると、当然ながら適当には書けないですよね。
これが思ったよりも大変で、ブログってやっぱりなんだかんだ言っても、そこまで品質を保証していないんだなぁと反省しました。まぁ、気軽さと品質のトレードオフだと思いますけど。

読みやすい文章を書くには。

読みやすい文章を書くには、どうすれば良いのかという方法論についての話は、以前にも何度か書いたことがあります。

  1. 多くの文章を読み、良い点を参考にする。
  2. 書いた文書を何度も発音して読んで、ひっかかりを修正する。

まぁ、この2つを昔から大事にしていますが、最近では、もう少し細かい手法を研究しています。現段階で纏めると、

  1. 漢字とひらがなと句読点のバランスを意識する。
  2. 流し読みしても内容を理解できるようにする。

という感じです。さっと読んでも内容を理解できる文章は、読みやすい文章だと言えて、さっと読んで内容の理解が追いつかない(じっくり読まないと理解が難しい)文章は、読みにくい文章であるという判断です。そして、さっと読めるようにするには、漢字とひらがなと句読点のバランスが大事だというのが僕の見解です。
例えば「できます」と「可能です」が同じ意味合いであるとき、「可能です」だと「可能」という漢字を見た瞬間に肯定であると判断できますが、「できます」だと一瞬認識が遅れます。どちらがより良い選択なのかを、前後の文脈によって判断していくのです。
もちろん、流し読みできる文章は、得られる内容が浅い可能性があるので、バランス調整が大事なのは言うまでもありませんが、この「流し読みで理解できる」という点を最近とても大事にしています。
そのためには、見出しを多くするなどの手法も大事になってくるのですが、なぜ見出しを多くした方が良いのかという答えのひとつが、流し読み可能であるからなのだと思っています。

今後の成長に向けて。

北方謙三がいまだ成長を続けているように、僕もこれから益々と成長していきたいと思っています。今後も、様々な経験をする機会が得られ、成長していければ幸せですね。