伊藤淳伝 - 飛翔編 -。

このご時世だからか、昨今では「破滅」というひとつのモードがインターネットを中心に賑いを見せている。
破滅、そう破滅。眉を顰めたくなるような悲痛な言葉であるが、昔から人の不幸というものは蜜の如く甘い。
破滅というものは、実に誰の身近にも存在しているのだが、今日は私の身近な破滅をひとつ紹介したい。

黎明期の伊藤淳。

私の身近には3大破滅一家というのが存在しているのだが、今日の話はその中のひとつ、伊藤家の長男「伊藤淳」についてである。
伊藤淳、昭和59年3月12日に生まれたこの者は、幼少期を山口県で過ごす。その後、小学生になり兵庫県明石市へと引っ越してきて、現在も明石を中心に生息しているのであるが、専門学校を卒業するまでは極めて陰の薄い青年であった。
彼と私との出会いは中学生の2年生のとき、クラスが一緒になったという縁である。決して暗い性格ではないが、目立つのも嫌いなタイプで、その顔、その性格、その能力、全てが学校という枠で計る物差しでは平凡というしかなく、クラスメートであっても、卒業後には「そんな人いたっけ?*1」というキャラクターであった。
しかしながら彼には秘めたる才能があり(未だ華開いたとは言い難いのであるが)、直感的にそれを察知した私は彼との縁を貴重なものとし、今に至るまで継続している。

伊藤淳の転機。

専門学校を卒業して特に就職先を決めなかった彼は、高校時代に両親が離婚したこともあり、専門学校の学費を母親に返済し、また家計を助けるべく工場の派遣労働を始めた。
派遣先で毎日、工場のベルトコンベアーと向いあう日々は、彼の精神状態を徐々に変えていった。自分とは何なのか。
そんな折、彼は一冊の漫画に出会う。羽海野チカ先生の「ハチミツとクローバー」である。彼と私は大変漫画が好きで、新人発掘に余年が無く、ハチクロも1巻発売から異次元レベルの新人が現われたと、連日その偉大さを語り明かしていたのだが、この漫画の大学生の主人公が「自分探し」と題して、無意識に家を飛び出して、そのまま自転車で北海道まで行くというエピソードがある。
伊藤淳21歳、極めて影響を受けやすいこの男は、このエピソードを現実へと実行した。漫画と大きく違うところは、スタートが関東ではなく関西というところであった。

酷い装備で北海道へ旅立つ。

伊藤淳という人物は、いつも想像を超える。陰が薄く、また周りにもアピールしないため、身近に接する者にしか分からないのだが、実に容易に我々の想像を超える(ただし、良い意味とは言い難い)。
21歳の夏、彼は派遣先を更新をせず、ちょっと良い感じになっていた職場の女の子がいたにも関わらず、ひと夏を自分探しに費やした。
私は彼の出発に立ち合ったが、そのときの装備は以下であった。

  • 自転車は中古ショップで購入した5000円のママチャリ。
  • 着替えなし。
  • ジーパンにサンダル、タンクトップ。
  • 2Lペットボトルが入る保冷型水筒。
  • 大阪府が500円玉サイズの1枚の日本地図。
  • 空気入れ。

彼をよく知る私からしてみれば、空気入れを持参している点は褒めてあげたいが、後はまず北海道まで自転車で行くにはあまりにも貧相としか言いようがなかった。特に地図は、道が全く描かれておらず、もはや不要としか言い様がない。もちろん当時、iPhone の様な地図をすぐ見ることのできる携帯はないし、そもそも彼はムーバであり、また地理も弱かった。
でも、彼は旅立ったのだ。
初日に大阪、二日目に奈良、3日目に名古屋。
ママチャリにしては恐しいスピードである。
4日目に静岡へと入り、5日目に箱根峠を目の前にしたところで、神は伊藤に試練を下した。台風である。
伊藤淳という人物の愛すべきところは、極めて運の悪いところである。箱根を前にしての台風。47都道府県を言えないような地理感覚のない伊藤であれば台風の中、箱根にアタックする可能性もあると考えた私は、電話でひとまず台風が過ぎるまで休めと説得した。
彼は素直に私の意見を聞き、そしてエロ本を買い、宿を取った。
結局、6日目は1日安宿で停泊した彼であったが、7日目に箱根を制し、8日目には東京都へと入ってしまった。この間、パンクは3回ほどあったらしく、彼は自分で修理するセットを購入したらしい。「これ以上、修理に出したら原価割れや」と言っていた。

「東京まで着いた。北海道はすぐ上だ」。

東京についたと電話で連絡を受けた私だが、その時の衝撃発言が今も耳に残っている。
「東京まで8日でついちゃったよ。ってことは、もうあと2〜3日で北海道につくよね?だって、北海道って東京のすぐ上でしょ?」
彼の中の日本地図では、東北地方は存在しなかったらしく、東京のすぐ北に北海道があると思っていたらしい。もう一度言っておくが、この時、彼は21歳である。
私は彼にショックを与えないように、北海道の宗谷岬(最北端)までは、まだ3分の1くらいだと伝えた。しかし、残念ながら彼の心はいとも簡単にポキリと折れてしまったのであった。
だが、ママチャリで明石から東京まで行った意地もある。彼は仙台から北海道までのフェリーがあることを知り、ひとまずフェリーで北海道へ上陸することを決心した。
ここでもう一度言っておかなければいけないのが、彼は物凄く運が悪い。フェリー乗り場へ到着し彼を待っていたのはお盆であった。フェリーは既に3日後まで予約一杯で空席がなかったのだ。
その残念なお知らせを彼は私に報告してくれたのだが、その時、またも仰天発言が飛び出した。

「3日あれば北海道まで着けるわ!」

彼はママチャリである。しかし、彼は実際に翌日に秋田、次の日に盛岡、そして、その次の日には八戸に到着してしまったのであった。1日100km〜130kmもの距離を連日走ったのだ。
彼は決して運動が得意な方ではない。高校時代にハンドボール部に入部するも、練習の厳しさに1週間で退部するような人物なのだ。にも関わらず、彼はアスリートが如くチャリをこぎまくった。そして、八戸にてフェリーに乗り、ついに北海道の大地へ踏み入れたのであった。
この間であるが、彼はようやく盛岡で寒さに気付き寝袋を購入。そして八戸でようやく肌がボロボロになってきた事に気付き日焼止めクリームを購入した。実に今更としか言いようがないが、これが伊藤なのである。

北海道の動物達。

北海道は苫小牧へ上陸した彼は、もうとにかく早く帰りたい一心で休む事なく北へと進み続けた。そんな彼を最初に優しく出迎えてくれた北の大地の動物はキツネの死骸であったらしい。
また、札幌を過ぎた後に、ひたすら信号も曲がり角もない一本道があり、北海道でツーリングを楽しむ人の名所のような道があるのだが、運悪く彼がその道を通ったときは超暴風だったらしく、こいでもこいでも進まない。挙句には、雀がその突風に吹き飛ばされて、地面をスライディングしながら海へと沈んでいったのを目撃したという。

宗谷岬で伝説へ。

なんとか、宗谷岬へ辿りついた伊藤淳。そこは何もないところだったが、自転車ツーリングをしている人達が記念碑をバックに自転車と一緒に記念撮影をしていた。そこで伊藤もママチャリと一緒に記念撮影を行なおうとすると、周囲からどよめきが起こる。そう誰もが突っ込まずにはいられまい。何故にママチャリと。
どこからきたのかと聞かれ、神戸からと答える伊藤。「このママチャリでですか!」と当然周囲は驚く。そう、きっと伊藤はこれをしに北海道まで行ったのだ。
そして、伊藤は北海道を観光し、フェリーで舞鶴まで移動し、そこから明石まで2日で帰ってきた。伊藤は何も得られはしなかったが、何かを成し遂げたという達成感はあったのかもしれない。

一回り大きくなったかもしれない伊藤は帰ってきて、職場で良い感じだった女の子に愛を告白した。しかし、無情にも北海道へ行っている間に女の子の熱が冷めてしまったために振られた。これもまた伊藤なのである。
しかし、ここから伊藤の伝説は始まるのである。

*1:事実、高校2年間同じクラスの女子に覚えられていなかったエピソードがある。