フューチャリスト宣言の感想。


めでたく一昨日くらいにサイン本が届きました。というわけで、ようやく感想を書きます。

精神的支柱になる本

梅田さんの著書はウェブ進化論からウェブ人間論、そしてフューチャリスト宣言と読んでいますが、その中でも一番面白かったのは、このフューチャリスト宣言でした。それはなぜか。ウェブ進化論がウェブについて、人間論は人間について書かれているとすれば、フューチャリスト宣言は社会について書かれているからです。
この本は、ウェブがもたらす社会への変化、これからの社会のあり方、それは2人が掲げる未来への希望であり、即ち若者への期待が込められています。そしてそれは、僕自身の信じる未来とも大きく重なり、またそれを梅田さんや茂木さんという大人たちが提唱してくれることで、強い自信に繋がり、進むべき道への迷いを断ち切る精神的支柱となります。

僕自身の話

例えば僕自身の話をすると、高校を卒業して大学への進学はせず、バイトしてお金を貯め、19才の秋(2002年)にパソコンを買って、パソコンで遊びながら勉強して今に至ります。それまでパソコンを触ったことは無く、家計にも余裕が無かったので、自分で買ったパソコンが家に届いたときの感動をいまでもよく憶えています。
なぜ、大学に進学しなかったのかを考えてみると、2つの理由が考えられます。当時、大学に入ってまでしたいことが無かったというのが一つ。そして、単純に大学に魅力を感じなかったというのがもう一つ。
高校での成績は悪い方ではなく、10位以内には入れていたけど、僕は必死に受験勉強をして大学に入ろうとする人を見て、この人たちは何でそんなに大学に入りたいんだろう?と不思議そうに眺めていました。もちろん、僕の親はそんな僕を不安そうに眺めていました(今でもそうなんですが)。
僕は小さいころから、人と違ったことをするのが大好きでした。その根底には、面白い事がしたい、人をあっと驚かせたい。そんな思いが強かったのでしょう。高い授業費を払ってまで大学に入るよりは、なにやら面白そうなパソコンを買って、何かできないものかと考えるようになりました。
ちなみに親の不安を少しでも和らげるために、東京芸大だったら入っても楽しそうだということで、そこを受験をする振りをしていました。しかし、浪人をする振りをしてやっていた事と言えば、パソコンで遊びながら興味の赴くままに勉強していただけです。
結局、パソコンを買ってから2、3ヶ月後にOperaに出会い、半年後の2003年3月にid:wireselfさんのお陰ではてなを知り、このダイアリを始めました。近藤さんが3人で作った「はてな」は、ウェブの世界は努力次第で何でも出来るという事を19才だった僕に教えてくれました。面白い事をしたい。という僕の信念は、はてなの存在によって、より具体的なものになったのです。

パソコンを触ったことの無い親を説得する難しさ

今思うと、19才のときパソコンを買って何かしようという考えは、あまりにも無謀だったかもしれません。そんな無謀さから周りや自分を誤魔化すために浪人生という仮面を作ってしまったのでしょう。
しかし、21才くらいから、それも通用しません。いい加減、将来どうするのか?という事を親にはっきりと示す必要があります。僕はネットで面白い事をしたいと伝えますが、パソコンすら触ったことの無い親には、ネットで何ができるのかなんて、理解できないし、想像すらできません。そこで、登場するのがフューチャリスト宣言です。
ウェブの世界では、自分を信じて好きなことに向けて努力し続ければ何でもできると。でも、そんな事を言っても当然理解してくれないので、MicrosoftAppleGoogleYahoo!もすべて20代の若者が作った会社が今の世界を大きく動かしていて、結局はやるかやらんかの世界なんだと。松下もヤマハもしかりで、学歴じゃなくて挑戦するか、しないかだけだ。挑戦し続けた者だけが勝つ。挑戦する前に諦めるなんて事は理解できない。という感じの事を言って、親を説得しました。

親の呪縛

フューチャリスト宣言は若者に期待を込めた本なのですが、僕自身の経験からすると、思いのほか多くの若者が、自信を持てていません。「何もしたいことが無い」なんて言う人がかなり多いです。そして自分がしたいことがある人でも、あまり自信が見られません。
そういった人の背後には、必ずといっていいほど社会的によく出来た親の存在があると僕は感じています。そして、そういう親の子ほど、好きなことをして生きてはいけないという呪縛にかけられて、生きているような気がしてなりません。
もちろん、結局はその人の人生なんで僕が横から口だししても仕方がないですが、それにしても20才を越えてまで親の導く将来の枠からはみ出さない様に生きている人を見ると、素直さに関心するのを通りこして、少し情けなく見えてしまうこともあります。
でも、これが日本の若者の大半を占める現状なのではないでしょうか。ほとんどの人が大学へ進学するのも、結局は親の影響でしょう。そしてそのままの流れで何となく就職する。この何となくという部分が、僕にとっては恐ろしくて仕方がないのです。何となく自分の人生を決めるという事が理解できないからです。
更に言えば、NHKでインドでITを学ぶ若者にインタビューをしていたとき、ほとんどの人が将来はビル・ゲイツの様に大きな会社を作りたいという風な、大きな希望を持っていたのですが、日本ではどうでしょうか?そのような大きな希望を持つ人はほとんどいないのでは無いでしょうか。それは悲しい事じゃないですか?
そんな悲しい現状を作り上げたのは、間違いなく多くの大人たちです。彼らは終身雇用が崩壊したにも関わらず、未だにそのまやかしを子供に信じさせ、美徳の様に語ります。向上よりも安定を目指すことを子供に求め、経済が不安になることによって、それが凄みを持った呪縛となって希望がもてない若者を作り上げることに繋がったのではないのではないかと思います。

だからこそ希望を

不安を拭ってくれるのは、安定なのでしょうか。僕は違うと思っています。不安を拭うのは自信であり、それは挑戦し続けることで得ることができるのです。不安を感じる暇が無いくらい動き回ればいいのです。
不安を感じる人の多くは、何もしていないから不安なだけでしょう。それなのに、安定という最も不安なものに寄りすがろうとするのは、あまりにも滑稽です。
希望を持つということは簡単です。しかし、持ち続けることは容易ではないかもしれません。大事なのは、自分は何が出来るのか、ということを常に問い続けて、実行し続けることしか無いと思っています。それこそが生きるということであり、人生の醍醐味だと僕は思っています。
そんな思いを再確認させてくれたのが、フューチャリスト宣言でした。
というわけで、茂木健一郎さんと、梅田望夫さんにはとても感謝しています。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)