野獣と呼ばれた男

20世紀の芸術は色彩の狂宴から始まった。フォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる彼らの誕生は、色彩に大きな注目がなされるようになった印象派以降の画家たちの登場を思えば、当然の経緯であると言えよう。
[画像 / 帽子の女]
その中心人物と見做されたのは1905年、サロン・ドートンヌ(秋の展覧会)の時点で最年長であったアンリ・マティスであった。彼の出品した『帽子の女』は批評家ジュフロワに「色彩の奇行のなかで錯乱している」と酷評された。
[画像 / 緑のすじのあるマティス夫人像]
出品作でないが、『帽子の女』と同じように妻をモデルにした『緑のすじのあるマティス夫人像』は、鼻すじをとおる緑の軸線が顔面を左右に色違いで分けて驚かされる。マティスは「こんな人に出会ったら私も逃げ出すだろう」と他人事のように語った。
[画像 / なすのある室内]
フォーヴィスム1903年頃から1907年頃にかけての短命な絵画傾向だった。彼らは青春の爆発を終えたかのように、その後は色調を変え技法を変えながら、それぞれの方向へすすむ。しかし、フォーヴィスムという色彩の革命の中心にあったマティスは、その後も色彩の造形をめざす実験を止めなかった。自分の感覚を調和と構成、和音と装飾という色彩の要素を考えて表現する。とくに装飾的な要素は単純化を求める一方で、『なすのある室内』のように、彼の好んだアラベスク(曲がりくねったよう)なパターンと室内の諸要素の組み合わせが、華麗な幻覚のように複雑な魅力を発揮する例もある。
人々の疲れをいやす「よい肘掛け椅子」のような芸術をめざしたい、と彼は語った。かつて野獣と呼ばれた男の意外な言葉である。
大戦後もフランスに留まった彼は、1941年に腸疾患の大きな手術を受けたが、芸術における精神はなおも活気づいている。体力の消耗を避けるため、その後はおもに、ガッシュで着色した紙を鋏で切り抜く手法を用いて制作した。この切り紙絵の手法は、マティス自身の手書き文字との調和が軽妙な版画集『ジャズ』をはじめ、豊かな装飾性に満ちた数々の作品に結実した。
[画像 / ダンス]
ダンス』など壮年期のタブローにも匹敵する規模の切り紙絵による晩年の大作『王の悲しみ』では、補色を含む強めのコントラストが黒い面と線とによってまとめ上げられ、84歳のマティスの眼と手は衰えを見せない。
[画像 / 王の悲しみ]
またマティスは初めての宗教的制作として、南仏ヴァンスのドミンゴ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装や聖職者の祭服のデザインを手掛け、「全生涯の総仕上げ」だとされたステンドグラスや、線だけで描かれた聖母子像などのタイル壁画は、明るく清澄な現代的宗教空間を作り出している。
[画像 / ドミンゴ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装]
マティスが到達した洗練と装飾性とは、20世紀美術のひとつの成果と言えよう。