狭い枠の中で

ダヴィッドの弟子の中で最大の存在はグロとアングルである。ダヴィッドの弟子の世代の作品には新古典主義が次第に変化してゆく様子が見られる。
アルコン橋上のナポレオン
アントワーヌ=ジャン・グロは『アルコン橋上のナポレオン』などのナポレオンの肖像と遠征の絵で画壇にデビューした。彼の若いナポレオン像は激しい感動と情熱を感じさせ、『ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト』や『アイラウの戦場のナポレオン』は軍神ナポレオンの称揚を目的としながらも戦場で傷つき、病んで死んでゆく人々の姿をこれ以前の絵にはない生々しさで描き出している。
ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト
王政復古期には彼は亡命したダヴィッドの後継者として目されたが師の古典主義な教えと自分のロマン主義的な資質と板ばさみになってセーヌ川で入水自殺した。
グロに代わって七月王政期のアカデミズムの指導者になったのはジャン=オーギュスト=ドミニック・アングルであった。彼は旧体制末期に生まれて第2帝政期まで生き、その間終始一貫、色彩に対する線の優位と静的な構図という新古典主義の領域を守り続けた。
グランド・オダリスク
だが、彼の描く人体は『グランド・オダリスク』に明らかなように、古典主義的理想美よりも彼の個人的な美意識に従って形作られており、存命中からしばしば批判の対象になった。
ベルダン氏の肖像
彼は『ベルダン氏の肖像』のような多くの優れた肖像画の他にも物語画も描いたがそのテーマは古典古代以外の東洋世界やフランスの歴史などにも典拠をもち、19世紀前半のアカデミズム絵画の折衷的な特徴を示している。
そんな彼の門下からは新時代であるロマン主義絵画最初の美意識のマニフェストであるテオドル・ジェリコーが出てくるのだがそれは次回にする。
新古典主義には古典古代という枠組みがはっきりしている。しかしながら芸術家の多くは創造という行為を生業としているため哲学者と違い狭い枠の中で生きることのできない生き物である。グロは葛藤の中で死を選択するに至ったが、アングルは多くの弟子に囲まれて死んだ。自らの繊細な魂を扱う芸術家にとって精神をどこに置くかということは、それほどまでに大きな問題なのである。