テレビ嫌い。
昨日、素晴らしい検索ワードで来られた方がいらっしゃった。それは『テレビ嫌い』だ。どうやら Google で『テレビ嫌い』を検索すると現在2番目のようだ。参照 google:テレビ嫌い
というわけで、どうせなら1番になりたいと思うので、テレビ嫌いの所以を語ろう。
まず、私がテレビをよく見た時期は中学生2年ぐらいまでとなる。小学生のときもあまり見ていない。なぜ見るかという理由もなかっただろう。ただの暇潰しぐらいだ。といっても部活も忙しかったし、テレビは一台だけだったので、人並みに見たぐらいだろう。
高校に入ってからも最初はテレビ番組に興味が無かっただけで、別に明確に嫌悪の意思表示はしていなかった。要はどうでもいいといった具合だ。本当に嫌悪感を示し始めたのはここ数年のことである。
発端が何なのかはわからない。恐らく日々蓄積されていたものがある時期で爆発した感じだ。最近で記憶に残っている原因の一つに、北朝鮮に関する放送が挙げられる。北朝鮮の生活の実態とかいう風な放送があるが、その実、内容はただ北朝鮮の生活を馬鹿にしているだけだ。当然、理解力のある大人はそれを鵜呑みにはしないだろう。しかし、子供はそうはいかない。北朝鮮の非を放送すれば、指導者ではなく国民全体を対象とする。その極めつけが、小学生か中学生か忘れたが、朝鮮学校の生徒に石を投げた事件だ。このような事件が起こることなど容易に想像がつくはずだ。しかし、それでも視聴率集めに放送をするテレビ局は悪としか言い様がない。
北朝鮮の貨物船である万景峰(マンギョンボン)号の停泊問題についてもそうだ。テレビでは停泊反対の団体が『北朝鮮へ帰れ』などとわめいていたが、あの船に乗っている大半は貧しい民衆であり、正月に故国に帰っていて日本に戻ってきた者達だ。それを帰れとはお門違いも甚だしい。馬鹿げている。まあ、そんなこんなで私のテレビ嫌いは一層顕著となったのだろう。
しかし、それは別にテレビが悪いわけではない。放送内容が下らないものが多すぎるのが原因だろう。だが、有益な番組に限って視聴率はとれず、下らないバラエティーや、お笑いなどしか見ない人が多いため、今やゴールデンタイムには劣悪な番組しか残っていないのが実状である。要は視聴者側にも問題はあるということだ。
ここに違う考えがある。これはテレビ好きの奴がテレビの内容の低俗さを憂いた発言なのだが、奴曰く『無料の放送で娯楽を得ようとする心が悪い』という。確かに、僕はテレビなど無価値であると考えいるが、テレビが無くては生きていけないという人も多いだろう。その人にとってテレビの価値は大を極める。しかし、それにはお金は必要とされていない(NHK しか見ないというのなら話はべつだが)。テレビ好きが続けて曰く、『お金も払っていないのにテレビに依存していること自体、テレビに求めているものの低さが伺える』とのこと。テレビに求めているものが低い(者が多い)ため、テレビの内容も低くなるのは必然と言えるそうだ。なーるへそ。
まとめに入るが、テレビ嫌いだからテレビを見ないというのは正しくないのだろう。テレビの全てが悪いわけではないのだから。NHK などは好きな部類に入る。あれは固陋に見えて意外と新しいものに挑戦しているし、刹那的な気休めの番組も少なく、あまり私情で物事を伝えていない。要は、視聴者側に内容を見極める目があればよいのだ。しかし、テレビというものは実に様々な年代が見ている。中学生以下にその真偽を判断しろということは少し酷である。深夜枠だからといって、子供が見ていないとは限らない。つまり、テレビは矛盾から避けられないものなのだ。その矛盾だらけなものを絶対な基準においているものは、やはり間違っているとしか私は思わない。物事の基準というものは現代において、絶対的なものから相対的なものへと移行している。これが正しいのという審議はさておき、私はテレビを相対的に見ることは間違っていると考える。あちらが面白い、こちらがつまらないという判断でテレビを見てはならない。何が見たいか、何を見るかが先ずあって、そこから何を得るのかが重要なのであり、他の番組と比べる必要はないはずだ。それはテレビが娯楽ではなく、情報元としての需要こそが本来の目的だからなのであって、玩具とは断じて違うからである。影響力が大きいものだからこそ、正しくあらなけらばならないのである。